為末さんのツイッターを元に書いてみたい。
例えば、不倫に身を投じようという友人がいたらどうか。
借金にあえぐ男と結婚しようとしていたらどうか。
自分ならやめろというに違いない。
だがその選択の自由を奪う権利は実は他人には無い。正確には無いという考え方がある。
愚行権の行使、という。
私が彼女にやめろという理由だが、彼女のためにならない、幸せじゃない、というのがまず先に出てくる。
しかし、彼女のためになるか、幸せかは彼女にしかわからないのだ。
たとえ自分に不倫の苦い経験があっても根本的に忠告などできる立場にないのだ。
じゃあ彼女が不幸になって自分にデメリットがあるかどうかというと、心が痛む他はあまり無いように思う。
冷たいようだが本当にそうだ。
ただ、自分は友人が泣いたり傷つくのを見るのが嫌なのだ。
だがそれでは彼女の選択の自由を制限するには利己的に見えるので、ためにならないとか幸せじゃないという理由が出てくるのだ。
では友人がこう言ってきたとしよう、「私が幸せなことであなたになにかメリットがあるの?」
これもまた、答えに窮すると思う。
なぜか、あんたが幸せなら私も嬉しいからだよ、という言葉がえらく安っぽく思えるからだ。
でもその共有は友達付き合いでとても大事なものだ。多分言葉だけが安っぽいのだ。しかしこの質問自体もえらく冷たいと思う。友達と思われていないようだ。
多分過去の同様のシチュエーションでは、自分はとても上から目線の態度でアドバイスをしていたように思う。
私の方が正しいんだから従いなさい、と思っていた。
でもそれは大きな間違いだ。
正しいかどうかはその人が決めるのだ。
それがわかった今もきっと私は、愚行をしようとする友人を止めるだろう。
ただ言うことが変わる。
あんたが泣くのを見たくないんだ、私が嫌なんだ、と言うだろう。
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